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令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行います。(Ⅲ)

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  令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行います。(Ⅲ) ◎午前10時より午後3時まで織田信長公より賜わる宝物を公開します ◎午前10時30分より釜敷地蔵尊供養会を行います。20分程 「花まつり」につき花御堂のお釈迦様に甘茶を注ぎ甘茶を接待します。   宗派を問わずどなたでもお詣り下さいませ。 勝念寺の「釜敷地蔵尊供養会」を浄土宗新聞の「Pick up!]のコーナーに載せて頂きました。 浄土宗新聞とは勝念寺が所属する浄土宗の定期刊行物で浄土宗の教えや宗内の行事・出来事などを檀信徒はじめ広く一般に伝える教化紙です。 勝念寺も少しは知られてきて色々なメディアに紹介されています。 しかし半数以上は萩とかロウバイの花等の紹介でなかなか仏様や寺の歴史についてはまだまだです。 当寺の旧本尊は安永七年(1778)に焼失してしまいましたが、この阿弥陀如来坐像が正徳五年(1715)伏見四十八願巡拝所四十七番札所に当てられました。 また多羅観音が天保十二年(1841)の伏見三十三ヶ所観音霊場二十一番札所にあてられ多くの参拝者がありました。 そして文政年間(1818-1830)に身代釜敷地蔵尊及び閻魔法王自作霊像のお札の版木が造られ、以来この二像のお札が多くの人々に配られ、広く身代釜敷地蔵尊のお詣りが増えました。 第二次大戦以前は釜敷地蔵尊の信者の地蔵講があり、お地蔵様の縁日には屋台が出て夜には提灯が灯り賑やかであったと聞きます。 この様に勝念寺は檀家寺でもあり同時に信者寺でもありました。昔から勝念寺は広く一般の方も多く受け入れお詣りして頂いてきた歴史があります。 戦後はこの様なことも忘れられ釜敷地蔵尊も寂しい思いをされていましたが、現住職になって再度昔の賑わいを復活させるべく頑張っています。 この「釜敷地蔵尊供養会」もその一環です。どうぞお詣り下さいませ。

令和7年3月22日 彼岸会法要を勤めました。

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  令和7年3月22日(土曜日)彼岸会法要を勤めました。 お彼岸に入っても肌寒い日が続きました。 ようやく今日、日中は温かくなってお出かけ日和になりました。 しかし今までの寒さが影響したのか風邪が長引いて体調を崩されているお年寄りが多いです。 そんな中お参りに来て頂きました。感謝しています。 法要の後は、六物についてお話ししました。 六物とは三衣(衣)鉄鉢・漉水嚢(ろすいのう)(食)座具(住)のことで、僧が執着心を捨てるように物の所有を禁じられたお釈迦様が生活に最低限度必要な道具の所有を認められました。 それが六物です。これはお釈迦様の命あるものは全て平等であり尊いという御心を現わすものです。 三衣は袈裟のことで身分によって着る物が異なるのを避けて、捨ててあるボロ切れを縫い集めた糞掃衣を着けること、漉水嚢は水漉しのことで水中の虫を殺さないように越して水に返してやる道具です。 お釈迦様は平等と命の大切さを説かれました。 そして能力の劣ったものでもお釈迦様は適切に指導して悟りへと導いた周利槃特(しゅりはんどく)の話をしました。 お釈迦様は相手の機根に応じて多くの悟る道を示され、宗祖法然上人はその中で仏の他力で往生する念仏の教えを選び取られたことをお話ししました。 境内のインド菩提樹ですが防寒用のプチプチを取りました。 指の太さのものは芯まで凍って樹皮が浮いてブヨブヨになっています。 腕の太さのものは樹皮が幹に付いて変わりがありません。 逆に鉛筆の太さのものは幹に緑が残っています。 本堂に入れていたものは葉が大分落ちましたが、変わりがありません。 早く新芽が出てくることを期待しています。 梅の花はもう見頃を過ぎています。 4月に咲くハクサンボクが蕾を付けています。 他にも花の蕾や葉芽が出ています。 寒くても季節は確実に移っています。

令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行います。(Ⅱ)

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  令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行います。(Ⅱ) ◎午前10時より午後3時まで織田信長公より賜わる宝物を公開します ◎午前10時30分より釜敷地蔵尊供養会を行います。20分程 「花まつり」につき花御堂のお釈迦様に甘茶を注ぎ甘茶を接待します。  宗派を問わずどなたでもお詣り下さいませ。 当寺には織田信長公より賜わるという釜敷地蔵尊が伝わります。 地獄で釜茹での責めに苦しむ亡者に代わり猛火に煽られる釜に立つ身代り地蔵尊です。 釜の上に立つという姿は珍しいです。 他に愛知県愛西市の釜地蔵寺のお地蔵様が有名ですが、釜茹でからお地蔵様が身代りとなって救うお話しです。 安永7年(1778)に本堂庫裡が火災で焼失しましたが、幸い地蔵堂は離れていたので焼失は免れました。 この時に釜敷地蔵尊の縁起が有れば失われたのかも知れませんが、口伝で残る筈です。 現在何も物語が残っていない所を見ると元々縁起は無かったのかも知れません。 何故でしょう。この地蔵堂は文禄4年(1595)の創立と書かれています。 文禄3年(1594)に盗賊石川五右衛門が捕えられ、京都三条河原で釜で煎り殺されました。 この時、五右衛門は大雲院の貞安上人に引導を渡され、墓が大雲院にあります。 石川五右衛門は豊臣秀吉の暗殺に関わったとの説もあります。 文禄4年(1595)関白豊臣秀次は秀吉から謀反を疑われ切腹させられ、秀次の妻妾、幼児など30余人が三条河原で打首となりました。 その時、貞安上人は刑場に地蔵尊を運び込み子女達に引導を授けました。 そして平成26年(2014)大雲院跡地から秀次の供養塔の一部が見つかりました。貞安上人がひそかに秀次の菩提を弔うべく建立したと思われます。 織田信長公より恩義をうけた貞安上人が本能寺以後の秀吉の行いをどう見ていたのでしょう。 元和元年(1615)5月に貞安上人は二条城で徳川家康に謁して殊遇を受けました。どのような話をされたのか興味があります。 関白秀吉の勘気をこうむった者の供養をすることは打ち首の覚悟すらしなければなりません。 貞安上人はよほど胆の据わったお方だったのでしょう。 貞安上人はこの様な方だからこそ五右衛門の供養に秀吉の城下町伏見に釜敷地蔵尊を祀ったのかもしれません。 だからあえて縁起由緒を残さなかったのでしょうか。