投稿

令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行いました。

イメージ
  令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行いました。 朝方は雨が降りましたが法要の時はお天気になってきました。 お詣りのお方もまずまずです。 平成24年(2012)に第一回釜敷地蔵尊供養会を始めてもう13年です。 そもそもこの供養会を始めようと思った切っ掛けはお札です。 文政年間(1818-1830)に当寺第十四世諦誉義禅上人の師僧 京都二条専念寺第十七世 順阿隆円大和尚より釜敷地蔵尊及び閻魔法王自作霊像の版木が贈られてより、釜敷地蔵尊のお札が広く配られました。 特に第二次大戦下 兵隊さんの家族が身代釜敷地蔵尊の御札を鉄砲の弾除けのお札として授かりに来られたと聞いています。 その時に当時、弾丸除けのお守りとしてよく使用されていた「サムハラ」のお札も付けていたそうです。 それで予てより釜敷地蔵尊を再び多くのお方にお参りに来て頂きたいとの思いより、200年前の版木から住職が手刷りして業者にお札として仕上げてもらいました。 このお札は住職の思いが詰まっています。よってこの供養会の法要の中心はお札を浄めることです。 このお札は手間暇が掛かっています。 しかしお参りに来られる方はこのお札はどうするのですかと聞かれます。大黒柱かお仏壇に祀って下さいと答えます。 うちは大黒柱も無いし仏壇もありません。もっと小さい身に着けるようなお守りがありませんかと言われます。版木が造られた当時は考えられない答えでしょう。 やはり時代は変わってきます。時代のニーズに合わせることも必要でしょう。 戦時中この釜敷地蔵尊の御札は折りたたんで小さくし、弾丸除けのお守りとして「サムハラ」のお札も付けて兵隊さんが身に着けやすくしていたのも頷けます。 今回も多くのお方に来て頂きました。色々なお話を聞かせて頂きました。 お陰様で御縁が出来ました。感謝します。

令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行います。(Ⅲ)

イメージ
  令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行います。(Ⅲ) ◎午前10時より午後3時まで織田信長公より賜わる宝物を公開します ◎午前10時30分より釜敷地蔵尊供養会を行います。20分程 「花まつり」につき花御堂のお釈迦様に甘茶を注ぎ甘茶を接待します。   宗派を問わずどなたでもお詣り下さいませ。 勝念寺の「釜敷地蔵尊供養会」を浄土宗新聞の「Pick up!]のコーナーに載せて頂きました。 浄土宗新聞とは勝念寺が所属する浄土宗の定期刊行物で浄土宗の教えや宗内の行事・出来事などを檀信徒はじめ広く一般に伝える教化紙です。 勝念寺も少しは知られてきて色々なメディアに紹介されています。 しかし半数以上は萩とかロウバイの花等の紹介でなかなか仏様や寺の歴史についてはまだまだです。 当寺の旧本尊は安永七年(1778)に焼失してしまいましたが、この阿弥陀如来坐像が正徳五年(1715)伏見四十八願巡拝所四十七番札所に当てられました。 また多羅観音が天保十二年(1841)の伏見三十三ヶ所観音霊場二十一番札所にあてられ多くの参拝者がありました。 そして文政年間(1818-1830)に身代釜敷地蔵尊及び閻魔法王自作霊像のお札の版木が造られ、以来この二像のお札が多くの人々に配られ、広く身代釜敷地蔵尊のお詣りが増えました。 第二次大戦以前は釜敷地蔵尊の信者の地蔵講があり、お地蔵様の縁日には屋台が出て夜には提灯が灯り賑やかであったと聞きます。 この様に勝念寺は檀家寺でもあり同時に信者寺でもありました。昔から勝念寺は広く一般の方も多く受け入れお詣りして頂いてきた歴史があります。 戦後はこの様なことも忘れられ釜敷地蔵尊も寂しい思いをされていましたが、現住職になって再度昔の賑わいを復活させるべく頑張っています。 この「釜敷地蔵尊供養会」もその一環です。どうぞお詣り下さいませ。