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釜敷地蔵尊と石川五右衛門

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令和2年4月8日(水曜日) 釜敷地蔵尊供養会を勤めます。 10時30分より法要開始 当日は織田信長公より賜る宝物を公開します。 当寺の身代釜敷地蔵尊は釜の上に乗った珍しいお地蔵様です。ただし縁起由緒書はありません。 開山貞安上人が織田信長公より賜ると伝わっています。 時々石川五右衛門と関係があるのかと聞かれます。 石川五右衛門は 文禄3年(1594)8月24日京都三条河原で釜茹で(釜煎り)された盗賊です。 処刑の前に市中を引き回され、大雲院の前で貞安上人に引導を渡された縁によりお墓が大雲院にあります。 盗賊とはいえ「融仙院良岳寿感禅定門」という立派な戒名が付いています。ただの盗賊とは思えません。 文禄4年(1595)関白秀次は秀吉から謀反を疑われ切腹させられ、秀次の妻妾、幼児など30余人が三条河原で打首となりました。 その時、貞安上人は刑場に地蔵尊を運び込み子女達に引導を授けました。そして平成26年大雲院跡地から秀次の供養塔の一部が見つかりました。貞安上人がひそかに秀次の菩提を弔うべく建立したと思われます。 関白秀吉の勘気をこうむった者の供養をすることは打ち首の覚悟すらしなければなりません。貞安上人はよほど胆の据わったお方だったのでしょう。 この様な方だからこそ五右衛門の供養に秀吉の城下町伏見に釜敷地蔵尊を祀ったと考えるのは住職の妄想でしょうか。 因みに当寺の地蔵堂は五右衛門の釜茹での翌年、文禄4年に造られたと伝わります。

梅が咲いています。

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令和2年2月6日(木曜日) 梅が咲いています。 鹿児島紅梅は濃い紅色で目立つのですが、背が高くなって傾いてきたので数年前に幹の上部を切りました。 さすが梅は萌芽力が強く枝が伸びてきて花が咲いています。 他にピンクの梅もあります。シダレ梅ですが萩が大きくなると当たるので枝を切っています。 細やかな景色です。わざわざ見に来ることはありません。 ロウバイは盛りは過ぎていますが、時々写真を撮りに来られます。 今年は花数が少ないです。

「サムハラ」の護符 もう一丁

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「サムハラ」の護符が他所で盛り上がっているみたいなので、既載の渡邉 一弘先生の論文からもう一丁。 江戸時代の平和な時は「サムハラ」の護符は、怪我除け、虫除け、地震除けなど多岐にわたっていたそうです。 それが日清、日露、日中戦争の戦時に際しては、弾丸除けのまじないとして特化したようです。 そして再び戦後の平和な時代になり、江戸時代のように様々なバリエーションでの信仰になりつつあるそうです。 「サムハラ」の護符は何も変わらないのに、時代のニーズに合わせて配る人が意味を持たせて・・・・・  当寺もその一人でした!

「サムハラ」の護符 追記

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「サムハラ」の護符 追記 昨日「サムハラ」の記事をUPしたところ、ネットで「サムハラ」の第2文字「ム」の右の字が、当寺は「台」になっていますが 第2画の点が無いのが正しいのではないかと指摘がありました。 早速ネットで調べたところ、点が無い「ム」が大部分でした。 しかし既載の渡邉 一弘先生の論文を見たところ、江戸時代には「台」の字や「合」の字があり、明治期まで「台」の字が使われていたようです。 日中戦争前に田中富三郎という人が「サムハラ」信仰を大々的に広めました。この人が広めた「サムハラ」が点が無い「ム」でした。 当寺の「サムハラ」がなぜ「台」になっているのか分かりません。 なにせゴム印ですので戦時中の時流に乗って急いで作って間違って「台」になったのか、 江戸時代からの相伝が有って「台」になったのか分かりません。 いずれにせよ歴史の一コマを現す物として大切に保存していきます。

「サムハラ」の護符

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令和2年4月8日(水曜日) 釜敷地蔵尊供養会を勤めます。 10時30分より法要開始 「サムハラ」て知っていますか。 先々代住職によると第二次大戦中に、当寺では鉄砲の弾を身代りに受けて下さると「身代釜敷地蔵尊」の御札が出征兵士の家族に求められました。 そしてこの「サムハラ」の護符も「弾丸除けのお守り」として一緒に配っていたそうです。 サムハラの判子は知っていたのですが、何となく胡散臭くて無視していました。 しかし最近ネットで「サムハラ」を調べてみると研究書も出されて戦時中の「弾丸除け信仰」として面白いテーマになっているそうです。 この中、「サムハラ信仰についての研究 怪我除けから弾丸除けへの変容」渡邉 一弘著(国立歴史民俗博物館研究報告第174集2012年3月)を読んでみると、 「サムハラ信仰」は江戸時代からあったそうですが、 とくに盛んになったのが日中戦争の時で、あの仁丹の広告にも「仁丹御買上の有無を問はず敵弾除けの御守進呈」と「サムハラ」の護符が無料配布されたそうです。 戦時中の独特の雰囲気の中でこの「サムハラ」の護符が爆発的に千人針と共に多くの人たちに配られた様です。 当寺でこの「サムハラ」の護符が配られた経緯は分かりませんが、判子もゴム印ですし、正に戦時中の流れの中で急遽作られたものでしょう。 しかし歴史の一コマを現す物として大切に保存していきます。