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令和6年4月26日  インド菩提樹を地植えしました。

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  令和6年4月26日(金曜日)インド菩提樹を地植えしました。 当初は5月の連休明けに地植えしょうと思っていたのですが、近ごろ25度近くの真夏日です。 日中少し動くと汗ばむくらいです。 そこで地植え作業をしました。 株によっては新芽が出だしました。 ともかく全員無事越冬出来ました。枯れた株はありません。 暖冬が一番の原因でしょう。 住職の子供の頃は当地方は冬になると10センチ位雪が積もりました。 バケツの氷も2センチ位の厚さに氷が張りました。 水道管が破裂したこともあります。 それに比べると今は温かくなりました。 お陰で当地方でもインド菩提樹が地植えで冬が越せるようになりました。 しかし今は異常気象です。数十年に一度の寒波があるかも知れません。 一応冬はプチプチで幹を巻いて、株元は地面に敷いて、寒風除けに外側を棒を立てて巻いておく予定です。これで地上部は枯れても春には株元から新芽が出てくるでしょう。 インド菩提樹を育てている方のブログにインド菩提樹は意外と生命力があると書かれています。 実際当寺の菩提樹で簡単に防寒した一番小さな菩提樹が葉を展開させています。 そしてもう葉の先に小さな尻尾まで付けています。カワイイ! 一時は枯れるかなと思った株ですが赤い透明の葉を健気に着けています。 そして一株だけ鉢植えで残しています。盆栽仕立てのインド菩提樹があるみたいです。 今年は枝を切り詰めて挑戦しようと思います。 去年は7~9月に脅威的に枝を伸ばしました。 上に伸びるばかりで横から枝が出ません。 伸びる枝は切らないといけないそうです。 今年も色々と挑戦してみます。またご報告します。

令和6年4月8日 令和六年 釜敷地蔵尊供養会を行いました。

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 令和6年4月8日(月曜日)令和六年 釜敷地蔵尊供養会を行いました。 お天気はまずまずでしたが、やはり休日でないとお参りの方は少ないです。 昨年は土曜日で結構お参り頂けました。 2月3月にはお問合せのメールや電話が多くありました。 また多羅観音(緑多羅菩薩)を拝観したいと来られる方に、普段は非公開で4月8日なら公開しますよと言えば、月曜日なら来れないと残念がっておられました。 来年から4月8日に近い日曜日に行おうか考えています。 しかし釜敷地蔵尊供養会を始めた当初、平成24年(2012)には春の4月は各地で行事も多く日曜日では他の名所に行かれて、知られていない勝念寺には誰も来ないだろうと考え敢えてウイークデーに行うことにしました。 結果的に良かったのかどうか。やはり目的をもって来られる方は来やすい日曜日の方が良いのかも知れません。 それでも法要を終わってからの午後は結構来て頂きました。 勝念寺には織田信長公より賜った他に観られない珍しい仏様が多くおられます。 中でもチベット仏教の多羅観音(緑多羅菩薩)が人気です。 人気と言うか、多羅菩薩を信仰されている方が結構おられて、古いチベットの多羅菩薩を祀っているのは日本では勝念寺だけとネットで知られて来られます。 いつでも見られる拝めると思って来られますが、当寺の様な小さな寺院は盗難など防犯や管理の面で常時公開は難しいです。 それで日を限って春と秋に公開しています。 本日も詳しいお方に来て頂き色々教わりました。有難いことです。 そもそも釜敷地蔵尊供養会を始めた当初、法要だけでは誰も来ないと思い宝物の公開を同時に行いました。 それで法要には参拝者がいなくても、午後には結構来られる状態です。 まあ誰も来ないよりはましですが、法要に来て頂きたいです。 他にも閻魔法王自作像や門出八幡宮、腰の曲がった阿弥陀如来像など、信長公より賜った珍しい仏様が居られます。 境内には白色と青色のシャガが咲いています。 インド菩提樹ですが、もう大分温かくなったので鉢植えは本堂の軒先に置いています。来られた方が珍しそうに見ておられます。 一鉢だけ枝を切り詰めて盆栽の様に鉢植えで育てて、後は地植えにする予定です。

令和6年4月3日 令和六年 釜敷地蔵尊供養会を行います(4)

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  令和6年4月3日(水曜日)令和六年 釜敷地蔵尊供養会を行います(4) 令和6年4月8日(月曜日)午前10時~午後3時  午前10時30分に法要開始 釜敷地蔵尊を供養して御札を配る(有料)、簡素な法要です。 4月8日は「花まつり」につき甘茶接待します 供養会では織田信長公より賜った閻魔法王自作霊像を公開します。 この閻魔法王像には詳細な「焔魔法王尊像縁起」が付属します。 昭和女子大学教授 関口静雄先生がこの縁起の論文を研究誌「學苑」に寄稿されました。 この中で当縁起には兵庫県宝塚市蓬莱山清澄寺の伝える『冥途蘇生記』を祖本として派生した別本・異本と称されるものの一つであるが、慈心坊尊恵が伊勢大神宮に参詣し、その帰途に伊賀上野で没したという他にない伝承を載せている。 この縁起には唐突に伊賀上野の名が出てきます。 閻魔法王が自ら彫った自作像を授けられた慈心房尊恵が伊賀上野に来て閻魔像を安置して亡くなった。 数百年の後に織田信長公がこの閻魔法王像を手に入れた。 そして安土宗論に勝利した貞安上人に織田信長公よりこの閻魔像が授けられたと書かれています。 おとぎ話のようですが、実際に伊賀上野に天台宗の常住寺があり慈心房尊恵伝説があり実際に小さな閻魔像が祀られています。 尊恵参宮伝承は常住寺蔵『冥途蘇生記』に記載はないが、同寺刊『閻王略縁起』や『伊水温故』に見え、 また常住寺蔵『冥途蘇生記』と『焔魔法王尊像縁起』はその閻魔像がともに松材製一寸八分の小像とするなど共通し、両寺の閻魔像の縁起譚は伝承圏を同じくすると考えられる。 伊賀上野にとどまった尊恵が「十王堂の聖」と衆庶に尊敬されたという『焔魔法王尊像縁起』の伝承は常住寺周辺資料に見えず、 また勝念寺の閻魔像は慈悲相の立像であるが、常住寺のそれは忿怒相の座像であって、同一の伝承圏にあっても閻魔像各々に独自の縁起譚が存していたと知れる。 続いて織田信長とこの閻魔像との関係、安土宗論に勝利した貞安上人にその褒賞としてこの閻魔像を授けた因縁不思議を説いているなど「冥途蘇生記」の改変展開を具体的に示すきわめて貴重でかつ特異な存在ということができる。と述べられています。 また織田信長がどうしてこの閻魔像を手に入れたのか。 天正伊賀の乱の様子を著した「伊乱記」や伊賀国内の歴史や由来を記述した「伊賀旧考」、 そして昭和女子大学 阿部美香先生の「