令和6年4月3日 令和六年 釜敷地蔵尊供養会を行います(4)
令和6年4月3日(水曜日)令和六年 釜敷地蔵尊供養会を行います(4)
令和6年4月8日(月曜日)午前10時~午後3時
午前10時30分に法要開始
釜敷地蔵尊を供養して御札を配る(有料)、簡素な法要です。
4月8日は「花まつり」につき甘茶接待します
供養会では織田信長公より賜った閻魔法王自作霊像を公開します。
この閻魔法王像には詳細な「焔魔法王尊像縁起」が付属します。
昭和女子大学教授 関口静雄先生がこの縁起の論文を研究誌「學苑」に寄稿されました。
この中で当縁起には兵庫県宝塚市蓬莱山清澄寺の伝える『冥途蘇生記』を祖本として派生した別本・異本と称されるものの一つであるが、慈心坊尊恵が伊勢大神宮に参詣し、その帰途に伊賀上野で没したという他にない伝承を載せている。
この縁起には唐突に伊賀上野の名が出てきます。
閻魔法王が自ら彫った自作像を授けられた慈心房尊恵が伊賀上野に来て閻魔像を安置して亡くなった。
数百年の後に織田信長公がこの閻魔法王像を手に入れた。
そして安土宗論に勝利した貞安上人に織田信長公よりこの閻魔像が授けられたと書かれています。
おとぎ話のようですが、実際に伊賀上野に天台宗の常住寺があり慈心房尊恵伝説があり実際に小さな閻魔像が祀られています。
尊恵参宮伝承は常住寺蔵『冥途蘇生記』に記載はないが、同寺刊『閻王略縁起』や『伊水温故』に見え、
また常住寺蔵『冥途蘇生記』と『焔魔法王尊像縁起』はその閻魔像がともに松材製一寸八分の小像とするなど共通し、両寺の閻魔像の縁起譚は伝承圏を同じくすると考えられる。
伊賀上野にとどまった尊恵が「十王堂の聖」と衆庶に尊敬されたという『焔魔法王尊像縁起』の伝承は常住寺周辺資料に見えず、
また勝念寺の閻魔像は慈悲相の立像であるが、常住寺のそれは忿怒相の座像であって、同一の伝承圏にあっても閻魔像各々に独自の縁起譚が存していたと知れる。
続いて織田信長とこの閻魔像との関係、安土宗論に勝利した貞安上人にその褒賞としてこの閻魔像を授けた因縁不思議を説いているなど「冥途蘇生記」の改変展開を具体的に示すきわめて貴重でかつ特異な存在ということができる。と述べられています。
また織田信長がどうしてこの閻魔像を手に入れたのか。
天正伊賀の乱の様子を著した「伊乱記」や伊賀国内の歴史や由来を記述した「伊賀旧考」、
そして昭和女子大学 阿部美香先生の「唐招提寺蔵『伊州長田十王堂供由緒書』について」という論文などで、織田信長が伊賀上野でこの閻魔像を手に入れた経緯が少し分かって来ました。
この縁起の書かれている内容が、当初は途方もなく荒唐無稽に思われていたものが今はなんとなく信長公と閻魔像の接点が見えてきたように思います。