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令和7年10月1日(水曜日)の萩振る舞い

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  令和7年10月1日(水曜日)の萩振る舞い 「萩振る舞い」は午前8時より午後4時までです。 早朝より8時まで、又は午後3時以降に水やりをします。 ◎お知らせ 10月8日から本格的に萩を刈り取ります。   刈り取り作業中は檀家さんや御用の方以外、一般の方は立ち入り禁止です。  4日5日に宝物の公開を行います。  それ迄にトイレ周辺や通路を覆っている萩を部分的に刈り取ります。 萩が急に咲き進みました。大分先の方で咲いています。 花がもう終わりに近づいています。 9月に入ってそれまでの猛暑が10日頃から急に朝夕涼しくなって来ました。 例年なら8月下旬の地蔵盆の頃の気候です。 萩の咲き始めが例年より1週間から10日ほど遅れ、咲き出すと今まで待っていたかのように一気に咲き進み終わりを迎えます。 何度も書いていますが萩は終わりかけの方が遠目では満開に見えます。 萩の花の一輪一輪は一日花です。今日咲けば明日には散ります。 風もないのにハラリと散ります。それを「こぼれ萩」「こぼれ花」といいます。 枝の元から先の方へ順次咲いていきます。 それで終わりかけの方が枝の先、前に出て咲くので、花数が少なくても目立つので遠目では満開に見えます。 萩を刈っていると門の外から、こんなに咲いているのに何で切るのかと怒られます。 近くで見たら花て無いやんと言っても分かってもらえません。 以前は萩は10数種類ありましたが今はそんなにありません。 萩の寿命は短いです。早ければ数年で消えて無くなります。 今は花が大きくて赤い赤花萩を中心に育てています。 種類によって咲く時期が異なり深山萩が早く、武蔵野萩が半月ほど遅咲きです。 それで種類が沢山あった時は順次咲いていき長く楽しめました。 今はそんなに種類はありません。 武蔵野萩は本堂の前の2本の松の内右手の根元にあります。 他の萩を刈り取った後、一株だけ寂しく咲いています。

令和七年度 秋の宝物公開をします。(2)

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  令和七年度 秋の宝物公開をします。(2) 京都浄土宗寺院特別大公開(浄土宗京都教区教化団 主催)に参加しての公開です。 令和7年10月4日(土曜日)~ 5日(日曜日)共に午前10時より午後3時まで 萩は今が見頃ですので公開が終わってから多分10月8日から刈り取りを始めます。 当日は織田信長公より開山聖誉貞安上人に賜った宝物を公開します。 宝物公開のメインは閻魔法王自作霊像と多羅観音(緑多羅菩薩)です。 長年ニ像ともよく分からない謎の仏様と伝わって来ました。 閻魔法王は織田信長公より賜るという縁起や古文書があり「蓮門精舎舊詞」にも開山聖誉貞安上人が織田信長公より賜ると記されています。 当寺に伝わる閻魔法王尊像縁起については崩し字で書かれておりその内容が読めませんでした。 それが昭和女子大学 関口静雄教授が詳細な論文を書いて頂き、それまで分からなかった縁起の内容が解明され織田信長公と閻魔自作像の関係が徐々に分かってきました。 多羅観音(緑多羅菩薩)は口伝で織田信長公より賜うと伝えています。 多羅観音(緑多羅菩薩)についても関西大学大学院 索南 卓瑪先生が論文を書いて頂きました。 当寺の多羅観音が700年前の造像と推定され、織田信長より賜ったとする伝承は記録には残っていないが、その可能性はあると書いて頂きました。 戦国時代の外国との交易が盛んな頃に、異国から伝えられた仏様と思われます。 「蓮門精舎舊詞」によると聖誉貞安上人は天正七年(一五七九)、織田信長公の命をうけ、安土宗論に参加、即ち勝利を得て「霊宝多品」を賜ると書かれています。 この閻魔法王自作霊像や多羅観音(緑多羅菩薩)・釜敷地蔵尊・門出八幡宮・毘沙門天・貞観彫刻様阿弥陀如来などもこの「霊宝多品」の中に含まれると考えられます。 ではそもそも何故、織田信長公が仏像を所持していたのでしょうか。 ここからは住職の妄想であり学問的根拠は全くありませんし責任は取りません。 戦国大名はそれぞれ菩提寺をもっていました。 織田信長は崇福寺、武田信玄は恵林寺、徳川家康は大樹寺、伊達政宗は瑞巌寺など。 戦に負けた大名の菩提寺は焼かれるか破壊され城の用材とされました。 仏像は武士には無用の為、知り合いの僧にくれてやったのではないかと思います。 当寺の閻魔像や多羅観音その他の織田信長公より賜ると伝わる多くの仏像も元は信長公に負...