令和七年度 秋の宝物公開をします。(2)

 令和七年度 秋の宝物公開をします。(2)



京都浄土宗寺院特別大公開(浄土宗京都教区教化団 主催)に参加しての公開です。



令和7年10月4日(土曜日)~ 5日(日曜日)共に午前10時より午後3時まで



萩は今が見頃ですので公開が終わってから多分10月8日から刈り取りを始めます。



当日は織田信長公より開山聖誉貞安上人に賜った宝物を公開します。

宝物公開のメインは閻魔法王自作霊像と多羅観音(緑多羅菩薩)です。

長年ニ像ともよく分からない謎の仏様と伝わって来ました。



閻魔法王は織田信長公より賜るという縁起や古文書があり「蓮門精舎舊詞」にも開山聖誉貞安上人が織田信長公より賜ると記されています。







当寺に伝わる閻魔法王尊像縁起については崩し字で書かれておりその内容が読めませんでした。



それが昭和女子大学 関口静雄教授が詳細な論文を書いて頂き、それまで分からなかった縁起の内容が解明され織田信長公と閻魔自作像の関係が徐々に分かってきました。




多羅観音(緑多羅菩薩)は口伝で織田信長公より賜うと伝えています。




多羅観音(緑多羅菩薩)についても関西大学大学院 索南 卓瑪先生が論文を書いて頂きました。




当寺の多羅観音が700年前の造像と推定され、織田信長より賜ったとする伝承は記録には残っていないが、その可能性はあると書いて頂きました。



戦国時代の外国との交易が盛んな頃に、異国から伝えられた仏様と思われます。



「蓮門精舎舊詞」によると聖誉貞安上人は天正七年(一五七九)、織田信長公の命をうけ、安土宗論に参加、即ち勝利を得て「霊宝多品」を賜ると書かれています。



この閻魔法王自作霊像や多羅観音(緑多羅菩薩)・釜敷地蔵尊・門出八幡宮・毘沙門天・貞観彫刻様阿弥陀如来などもこの「霊宝多品」の中に含まれると考えられます。




ではそもそも何故、織田信長公が仏像を所持していたのでしょうか。

ここからは住職の妄想であり学問的根拠は全くありませんし責任は取りません。



戦国大名はそれぞれ菩提寺をもっていました。

織田信長は崇福寺、武田信玄は恵林寺、徳川家康は大樹寺、伊達政宗は瑞巌寺など。

戦に負けた大名の菩提寺は焼かれるか破壊され城の用材とされました。

仏像は武士には無用の為、知り合いの僧にくれてやったのではないかと思います。





当寺の閻魔像や多羅観音その他の織田信長公より賜ると伝わる多くの仏像も元は信長公に負けた大名の菩提寺に祀られていた仏像ではないかと思われます。















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