令和4年4月8日「釜敷地蔵尊供養会」を住職のみで行いました。
令和4年4月8日(金曜日)「釜敷地蔵尊供養会」を住職のみで行いました。
コロナ流行に加え鎮守社門出八幡宮の工事で境内が散らかっている為、一般の方の参拝はご遠慮頂きました。
平成24年(2012)年に「釜敷地蔵尊供養会」を始めて今年で10年目になります。
第二次大戦前は釜敷地蔵尊の縁日に屋台が出て賑わったと聞いています。
その世話をして頂いたのは丹波橋商店街の皆さんだと思っていましたが、商店街の人に聞くと戦前は丹波橋駅の西側には店はほとんど無く商店会など組織できる状態では無かった。
戦後京阪丹波橋駅近くに店が出来だして商店会を造ろうかと成ったと話しておられました。
釜敷地蔵尊は檀家さんとは別に信者さんがあったと聞いています。
誰が縁日の世話をして頂いていたのか考えているときに、ある方が戦前なれば在郷軍人会が色んな地域の活動をしていたので軍人会が世話をしていたのではないかと話されました。
伏見には第16師団が京都市伏見区深草にありました。当寺にも将校さんが下宿しており毎朝馬が迎えに来たと母から聞いています。
また戦争が始まると兵隊さんが当寺に下宿するようになり戦地に行かれるときは信楽焼の蛙の内側に名前を書いていかれました。
「無事帰る」の願いからでしょうか、母は見つかると怒られると笑っていました。
当時は戦地に行くときは死ぬ覚悟で行けと教えられていたので「無事帰る」は御法度でした。
しかし戦地から無事帰られた方は釜敷地蔵尊にお礼参りに来られたと母から聞いています。
また戦時中は身代釜敷地蔵尊の御影が鉄砲の弾除けとしてサムハラの護符とともに求められました。
戦前のお寺は半公的機関で何らかの形で軍隊と関わりがあったようです。
在郷軍人会が釜敷地蔵尊のお祭の世話をして頂いていたかは分かりませんが、戦前の釜敷地蔵尊は其れなりに知られていたようです。
再度昔の賑わいを取り戻そうと「釜敷地蔵尊供養会」を始めました。