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令和3年3月24日新型コロナ感染症終息の祈願法要を勤めました。

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  令和3年3月24日(水曜日) 十二回目の新型コロナウイルス感染症終息の祈願法要を勤めました。 新型コロナウイルス感染症はCOVID-19と名付けられたように2019年に発生しましたが、日本で騒がれたのは昨年の春からだと思います。 もう一年になります。 昨年に彼岸会法要を勤めた頃はまだ、夏になれば暖かくなって治まって来るだろうと安易に考えていましたが、一年たっても治まるどころかしぶとく拡大しています。 当寺では昨年の4月から新型コロナウイルス感染症終息の祈願法要を始めました。 祈ったぐらいでコロナが治まるのかという声が聞こえてきますが、 当寺の宗祖法然上人は「祈によりて病も止み、命も延ぶる事あらば、だれかは一人として病み死ぬる人あらん」神仏に祈ることによって病気が治り、命が延びるのであれば、誰一人として病気で死ぬ人があろうか。 さらに、「仏の御力は、念仏を信ずる者をば、転重軽受と云いて、宿業限りありて重く受くべき病を軽く受けさせ給う。」仏の御力は、念仏を信じる者を『転重軽受』といって、重く受けるはずの病を、軽く受けるようにして下さる。 と述べられています。 この「念仏を信ずる者」を「神様仏様に祈るもの」と置き換えれば広く理解されるのではないかと思います。宗派には怒られますが。 宗派を超えて多くのお寺や神社で新型コロナウイルス感染症終息の御祈願が行われています。 海外でもキリスト教や色んな宗教がコロナ終息の祈りを捧げています。 思いは皆同じです、どうかこの祈りが通じますように。

令和3年3月22日彼岸会法要を執り行いました。

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  令和3年3月22日(月曜日) 彼岸会法要を執り行いました。 お彼岸の案内に「檀家様の参詣はお参り頂けるお方はマスク着用で、体調がすぐれないお方は無理をせずお家に居ててください。本堂は換気と消毒液を用意しています。」と案内しました。 この様な状況で積極的にお参りして下さいとは言いにくいです。早くコロナが終息することを願います。 法要の後は先日地蔵堂から山門にかけて参道を補修したことを報告しました。 また地蔵堂横に観音像をお祀りしたことを説明しました。 当寺には織田信長公より賜ったと伝える多羅観音がおられます。 阿弥陀様が苦しんでいる衆生を救うために観音菩薩をこの世に送られました。しかしあまりに苦しむ衆生が多いために慈悲と絶望の板挟みとなり観音菩薩の体は弾け飛び散りました。 阿弥陀様は弾けた観音様の体を拾い集め、観音様に阿弥陀様の顔を加えた十一の顔と、 千本の手、 そして手には全てを見通す目が生まれました。 観音様は十一面千手千眼観世音菩薩として生まれ変わられました。 しかしこの体を以てしても次々生まれてくる衆生を救うことが出来ませんでした。 観音菩薩は声を上げて泣き叫び水晶の涙を流しました。 この水晶の涙から多羅菩薩が生まれました。多羅菩薩は観音様の手伝いをして多くの苦しむ衆生を救いました。 それでどんな生き物でも観音様や多羅菩薩の眼にとまらなかったり、その慈悲にあずかれないものは一つとしてないのです。 これはチベットに伝わるお話です。 この言い伝えから近年この多羅観音の参拝を望むお方が増えてきました。しかし防犯管理の面から宝物公開時以外は非公開としています。 折角遠い所から来られてそれでは気の毒ですので、手を合わせる対象が必要と考え観音菩薩をお祀りしました。

令和3年2月27日勝念寺のホームページに「伊賀上野の閻魔像」のページを追加しました。

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  令和3年2月27日(土曜日) 勝念寺のホームページに「伊賀上野の閻魔像」のページを追加しました。 閻魔法王尊像縁起には織田信長公が伊賀上野で閻魔像を手に入れ天正七年に開山貞安上人が賜ったと書かれています。 勝念寺蔵 閻魔法王尊像縁起 伊賀上野に常住寺があり勝念寺と同じ慈心坊尊恵伝説を持った閻魔像が祀られています。 この常住寺閻魔像について調べていくと織田信長が伊賀国を攻めた天正伊賀の乱と関わってきます。 「伊乱記」に天正5年(1577)に国司の仁木友梅が常住寺の本尊 閻魔像を百田氏より借り受け、返さないので百田氏の配下伊賀衆が仁木を攻め伊賀から追い出したと書かれています。 「伊賀旧考」には仁木友梅は常住寺の本尊閻魔王の像を貪り取ろうとするが敗退して甲賀に隠れた。織田信長の扶持を得て伊賀の様子を注進した。天正九年織田軍に加わり伊賀を攻め討死をしたと書かれています。 仁木友梅が織田信長に閻魔像を献上したという記述は有りませんが、閻魔王の像を貪り取ろうとした仁木友梅と織田信長の接点が明らかになりました。 天正伊賀の乱後について昭和女子大学 阿部美香著「唐招提寺蔵『伊州長田十王堂供由緒書』について」によると、 天正伊賀の乱で灰塵に帰した常住寺を再建したのは、天正十三年(1585)に伊賀守に任じられた筒井定次で慶長七年(1602)九月に十王堂の落慶法要と定次の亡母の三十三回忌供養を行いました。 その時に本尊前で読み上げる表白文には「筒井定次が亡母の三十三回忌にあたり、十王堂の伽藍を再興し、本尊たる十王(閻魔像)を彫刻し、と書かれています。 しかし筒井定次は改易となり、次に藤堂高虎がこの地を治め二代目藩主藤堂高次が常住寺の再興を行い閻魔堂とも呼ばれ修繕を重ねて今日に及びます。 これに依り現在の常住寺は伊賀の乱で灰塵に帰した十王堂(常住寺)を慶長七年(1602)に再興した筒井定次以後の寺院と言えます。 織田信長公がいつどのようにして伊賀から閻魔像を手に入れたかについて調べていくと、「天正伊賀の乱」「常住寺」「百田氏」「仁木氏」「織田信長」など幾つかのキーワードが線で繫がってきます。 しかし仁木友梅(義視)が執拗に閻魔像を欲したのは何故でしょうか、当時戦国大名は珍しい茶器を追い求めました。それを献上することも有りました。 当時茶室に小さな仏像を祀るのではなく、飾るような...