令和3年2月27日勝念寺のホームページに「伊賀上野の閻魔像」のページを追加しました。

 

令和3年2月27日(土曜日)

勝念寺のホームページに「伊賀上野の閻魔像」のページを追加しました。


閻魔法王尊像縁起には織田信長公が伊賀上野で閻魔像を手に入れ天正七年に開山貞安上人が賜ったと書かれています。


勝念寺蔵 閻魔法王尊像縁起





伊賀上野に常住寺があり勝念寺と同じ慈心坊尊恵伝説を持った閻魔像が祀られています。





この常住寺閻魔像について調べていくと織田信長が伊賀国を攻めた天正伊賀の乱と関わってきます。





「伊乱記」に天正5年(1577)に国司の仁木友梅が常住寺の本尊 閻魔像を百田氏より借り受け、返さないので百田氏の配下伊賀衆が仁木を攻め伊賀から追い出したと書かれています。



「伊賀旧考」には仁木友梅は常住寺の本尊閻魔王の像を貪り取ろうとするが敗退して甲賀に隠れた。織田信長の扶持を得て伊賀の様子を注進した。天正九年織田軍に加わり伊賀を攻め討死をしたと書かれています。





仁木友梅が織田信長に閻魔像を献上したという記述は有りませんが、閻魔王の像を貪り取ろうとした仁木友梅と織田信長の接点が明らかになりました。




天正伊賀の乱後について昭和女子大学 阿部美香著「唐招提寺蔵『伊州長田十王堂供由緒書』について」によると、

天正伊賀の乱で灰塵に帰した常住寺を再建したのは、天正十三年(1585)に伊賀守に任じられた筒井定次で慶長七年(1602)九月に十王堂の落慶法要と定次の亡母の三十三回忌供養を行いました。



その時に本尊前で読み上げる表白文には「筒井定次が亡母の三十三回忌にあたり、十王堂の伽藍を再興し、本尊たる十王(閻魔像)を彫刻し、と書かれています。



しかし筒井定次は改易となり、次に藤堂高虎がこの地を治め二代目藩主藤堂高次が常住寺の再興を行い閻魔堂とも呼ばれ修繕を重ねて今日に及びます。



これに依り現在の常住寺は伊賀の乱で灰塵に帰した十王堂(常住寺)を慶長七年(1602)に再興した筒井定次以後の寺院と言えます。



織田信長公がいつどのようにして伊賀から閻魔像を手に入れたかについて調べていくと、「天正伊賀の乱」「常住寺」「百田氏」「仁木氏」「織田信長」など幾つかのキーワードが線で繫がってきます。



しかし仁木友梅(義視)が執拗に閻魔像を欲したのは何故でしょうか、当時戦国大名は珍しい茶器を追い求めました。それを献上することも有りました。

当時茶室に小さな仏像を祀るのではなく、飾るようなことが有ったのでしょうか。

信長公は何故小さな閻魔像を所持していたのでしょうか。まだまだ謎があります。

更に調べていって明らかにしたいと思います。











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