令和6年3月26日 令和六年 釜敷地蔵尊供養会を行います(3)

 令和6年3月26日(火曜日)令和六年 釜敷地蔵尊供養会を行います(3)

令和6年4月8日(月曜日)午前10時~午後3時

 午前10時30分に法要開始

釜敷地蔵尊を供養して御札を配る(有料)、簡素な法要です。

4月8日は「花まつり」につき甘茶接待します



釜敷地蔵尊供養会で公開するチベット仏教の多羅観音(緑多羅菩薩)は織田信長公より開山貞安上人に賜うと伝わっています。


この仏様はいつどの様な経路で日本に入り織田信長公の手に届いたのか調べています。




一つには織田信長公当時の戦国時代、千利休のような堺の商人などにより異国から伝えられたと考えられますが、九州の大内義隆や大友宗麟などの戦国大名も中国の明や李氏朝鮮や東南アジアと交易を行っています。


関西大学大学院 東アジア文化研究科 索南卓瑪先生が勝念寺の多羅観音を論文『東アジア仏教における多羅信仰と文化交渉』「第八章 第四節 京都勝念寺における多羅観音菩薩」180p~190p に寄稿されました。




これによると勝念寺の多羅菩薩像は中国の元時代から明代の初期(13世紀後半から14世紀)の図像と非常に類似しているため、同時代のものではないかと思われ、戦国時代に中国から伝えられたことが可能である。と述べられています。




また室町時代に足利義満が始めた日明貿易(勘合貿易)によりもたらされた唐物は八代将軍・足利義政により収集され東山御物と呼ばれます。





これが後に散逸し一部が織田信長の所持となりました。この中に多羅観音(緑多羅菩薩)が含まれている可能性があります。




そして宇治黄檗山萬福寺は寛文元年(1661)に中国僧 隠元禅師によって開創されました。

以後 第13代まで中国渡来僧が代々住持を勤めました。




この時に中国の文物が日本にもたらされました。この中に多羅観音が含まれている可能性を主張される方がいます。



しかし中国清朝はチベット仏教が普及していた時に、緑多羅菩薩がどういう仏様か分かっていた黄檗宗のエリート僧がその様な仏像を持って来る可能性は無いと思います。




やはり一番可能性のあるのは豪商茶人を多く輩出し信長に接近した堺の貿易商が大陸から多羅菩薩をもたらし信長に献上したと考えるのが自然だと思います。












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