令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行います。(Ⅱ)

 令和7年4月6日(日曜日)令和七年 釜敷地蔵尊供養会を行います。(Ⅱ)



◎午前10時より午後3時まで織田信長公より賜わる宝物を公開します

◎午前10時30分より釜敷地蔵尊供養会を行います。20分程

「花まつり」につき花御堂のお釈迦様に甘茶を注ぎ甘茶を接待します。

 宗派を問わずどなたでもお詣り下さいませ。


当寺には織田信長公より賜わるという釜敷地蔵尊が伝わります。



地獄で釜茹での責めに苦しむ亡者に代わり猛火に煽られる釜に立つ身代り地蔵尊です。釜の上に立つという姿は珍しいです。



他に愛知県愛西市の釜地蔵寺のお地蔵様が有名ですが、釜茹でからお地蔵様が身代りとなって救うお話しです。



安永7年(1778)に本堂庫裡が火災で焼失しましたが、幸い地蔵堂は離れていたので焼失は免れました。



この時に釜敷地蔵尊の縁起が有れば失われたのかも知れませんが、口伝で残る筈です。




現在何も物語が残っていない所を見ると元々縁起は無かったのかも知れません。



何故でしょう。この地蔵堂は文禄4年(1595)の創立と書かれています。



文禄3年(1594)に盗賊石川五右衛門が捕えられ、京都三条河原で釜で煎り殺されました。



この時、五右衛門は大雲院の貞安上人に引導を渡され、墓が大雲院にあります。石川五右衛門は豊臣秀吉の暗殺に関わったとの説もあります。



文禄4年(1595)関白豊臣秀次は秀吉から謀反を疑われ切腹させられ、秀次の妻妾、幼児など30余人が三条河原で打首となりました。




その時、貞安上人は刑場に地蔵尊を運び込み子女達に引導を授けました。



そして平成26年(2014)大雲院跡地から秀次の供養塔の一部が見つかりました。貞安上人がひそかに秀次の菩提を弔うべく建立したと思われます。



織田信長公より恩義をうけた貞安上人が本能寺以後の秀吉の行いをどう見ていたのでしょう。




元和元年(1615)5月に貞安上人は二条城で徳川家康に謁して殊遇を受けました。どのような話をされたのか興味があります。



関白秀吉の勘気をこうむった者の供養をすることは打ち首の覚悟すらしなければなりません。




貞安上人はよほど胆の据わったお方だったのでしょう。



貞安上人はこの様な方だからこそ五右衛門の供養に秀吉の城下町伏見に釜敷地蔵尊を祀ったのかもしれません。





だからあえて縁起由緒を残さなかったのでしょうか。






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