令和5年10月4日 令和5年度秋の宝物公開のいついて
令和5年10月4日(水曜日) 令和5年度秋の宝物公開のいついて
10月7日(土曜日)・8日(日曜日)共に午前10時より午後3時まで本堂で織田信長公より賜う宝物を公開します。
勝念寺の第一の宝物は織田信長公より賜わる閻魔法王自作霊像です。
閻魔像は天正7年(1579)5月の安土宗論の褒賞として織田信長公より開山貞安上人に賜ったと伝えています。
このことは元禄9年(1696)に書かれた蓮門精舎舊詞(元禄・享保年間に全国浄土宗寺院の沿革を調査記録したもの)「勝念寺」の項に書かれています。
また慶長20年(1615)の貞安上人より弟子安誉上人へ閻魔像を譲与した書状があります。
さらにこの閻魔像には詳細な縁起書があり、この縁起について昭和女子大学の関口静雄教授が論文を出され、
それによると縁起には織田信長公が伊賀上野で閻魔像を手に入れ天正七年に開山貞安上人が賜ったと書かれています。
この伊賀上野に天台宗の常住寺があり勝念寺閻魔像と全く同じ縁起をもった慈心坊尊恵伝説の一寸八分の松材で掘られた閻魔像が祀られています。
この常住寺は天正6年から9年にかけて織田信長の伊賀攻め(天正伊賀の乱)で灰塵に帰しました。
天正伊賀の乱について「伊乱記」や「伊賀旧考」によるとこの閻魔像を国司の仁木友梅(義視)が拝見を望み借り出したが返さないため賀衆が仁木を攻め伊賀から追い出した。それが天正五年5月のことあります。
さらに仁木友梅は甲賀に隠れ織田信長の扶持を得て伊賀の様子を注進したと書かれています。
そして伊賀の乱の時に、仁木友梅は織田軍に加わり伊賀を攻め討死をしました。
仁木友梅が織田信長に閻魔像を献上したという記述は有りませんが、伊賀の閻魔像と信長の接点が明らかになりました。
「閻魔法王尊像縁起」の前半は慈心坊尊恵が閻魔法王から自作の像を賜った話や応和の宗論による平清盛の南都の焼き討ちとその報復による織田信長の比叡山焼き討ちなど荒唐無稽の話が載っています。
織田信長公が伊賀上野で閻魔像を手に入れた話もその延長線で荒唐無稽の話と思っていました。
しかし伊賀の常住寺に勝念寺の閻魔像と全く同じ縁起を持つ閻魔像が祀られていることを知って大変驚きました。
しかも信長公と常住寺の閻魔像と何らかの接点がある可能性もある。
当寺の閻魔法王像については調べれば調べるほど奥深い御像だと思います。
宝物公開に来られた方にどのようにこの閻魔像について話すべきかいつも迷います。