令和4年10月6日 多羅観音を公開します

 令和4年10月6日(木曜日)多羅観音を公開します



令和4年10月8日(土曜日)・9日(日曜日)

 午前10時~午後3時まで


織田信長公より賜わる多羅観音はチベット仏教の緑ターラという仏様です。



この多羅観音が日本にもたらされたルートは三つ考えられます。



一つは、戦国時代、ルソンの壺のように外国との交易が盛んな頃に、千利休のような堺の商人などにより大陸から輸入された。



二つめは、関西大学大学院の索南卓瑪先生の論文『東アジア仏教における多羅信仰と文化交渉』「第八章 第四節 京都勝念寺における多羅観音菩薩」の中で、

勝念寺の多羅観音は中国の元時代から明代初期、十三世紀後半から十四世紀の造像と推定されると書かれています。




東山御物は室町時代将軍足利義政の時にまとめられた将軍家の宝物の総称であり、中でも唐物と呼ばれる中国元宋の絵画工芸品は日明貿易(勘合貿易)によりもたらされました。

この中の一部は織田信長の所蔵になったものもあります。この中に多羅観音が含まれている可能性もあります。




三つめが江戸時代初期日本に渡来した隠元禅師は京都宇治に黄檗山万福寺を開創し、以後歴代住持は初代隠元から第13代まで中国渡来僧が代々住持を占めました。

この渡来僧が来日した時に中国の珍しい文物が日本にもたらされ、この中に多羅観音が含まれる可能性を指摘する方が居られます。



現に隠元禅師が来日した時も隠元豆をはじめ書や文物が伝えられました。

しかし明・清の時代の中国はチベット仏教もすでに普及しており多羅観音がチベット仏教の緑ターラー菩薩であることは認識されているはずで、黄檗宗のエリート僧があえてその様な仏像を持ち込むとは考えられません。



ともかく多羅観音はチベット仏教の仏様であり、大陸から朝鮮半島経由か中国南部から琉球経由でもたらされた御像です。



御像は金銅ですが前面はかなり風化しており触れば表面が剥がれるくらいです。下の方は古い十円玉のような銅色をしています。




宝冠や胸腰などに穴が空いています。当初は玉石がはめ込まれていたのでしょう。

金色の像に色とりどりの玉が輝き煌びやかな御像だったと思います。




御顔がいかにも異国風でロマンあふれる仏様です。












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