「ネットで大公開」(11)
令和2年10月31日(土曜日) 「ネットで大公開」(11) 「ネットで大公開」は10月いっぱいで終わる予定でしたので後がありません。 「大公開」と言いながら閻魔像についてだけになってしまいましたが、宝物公開時に今まで書いてきたことを全部喋れば来られたお方は退屈して帰ってしまわれるだろうと思い、今回閻魔像について掘り下げて書きました。 勝念寺にはまだ多羅観音を始め調べれば魅力ある宝物がありますが、また他の機会にお話しします 今回の「ネットで大公開」で改めて勝念寺のことを調べ直しました。 そしてまた新たな疑問が出てきました。 勝念寺のHPや京都市の駒札に「時の天下人豊臣秀吉公の城下町伏見丹波橋に一寺を開創して勝念寺と号した」と書いていますが、勝念寺開創の天正15年(1587)は伏見城はおろかその前身たる指月城も出来ていません。 指月城は5年後、伏見城は10年後に出来ています。 当時、秀吉の拠点は大坂城です。天正15年には京に聚楽第を建てました。 伏見は秀吉が築いた伏見城を中心に大名が多く屋敷を構え、現町名にも多く名残を留めます。 しかし伏見に大名屋敷が建ち並ぶのは天正15年よりずっと後です。 開山貞安上人は信長秀吉家康とも直に話が出来、元和元年には二条城で家康と謁見しています。 また大名とも親交が深く、伏見で亡くなった佐土原島津藩初代藩主の島津以久の葬儀も行っています。 開山貞安上人は京に大寺院大雲院を開創しながら何故、当時まだ片田舎であろう伏見に勝念寺を建てたのでしょうか。 伏見が発展する何らかの情報が貞安上人にあったのでしょうか。 長らくお付き合い頂きまして有難うございました。来年秋には宝物の公開が出来るように祈っています。