令和2年「ネットで大公開」(4)

 

令和2年10月8日(木曜日)

「ネットで大公開」(4)

勝念寺の閻魔像は天正7年(1579)に織田信長公から賜りました。



天正6年(1578年)から天正9年(1581年)にかけて織田勢が伊賀の国に攻め入りました、これを天正伊賀の乱と言います。



伊賀の国は一人の大名が一国を支配するのではなく郷士の合議制でした。信長に恭順するか抵抗するか意見が分かれました。



第一次伊賀の乱、信長の次男 織田信雄は天正6年(1578)から翌天正7年(1579年)に伊賀衆の手引きにより伊賀に侵攻しましたが敗退しました。



第二次伊賀の乱、伊賀衆のゲリラ戦による激しい抵抗に警戒した信長は天正9年(1581年)数万の兵で掃討戦を行い村や寺院は焼き払われ、住民は殺害されました。



この時、常住寺も灰塵に帰したとされます。



勝念寺の閻魔像は伊賀と信長公の接点から、この戦乱の時期に関係があるのではないかと思われます。



天正7年に賜ったとするなら、天正6年に織田信雄が侵攻した第一次伊賀の乱のときではないかと考えられます。



只今この時の状況を調べています。次回より具体的に述べます。



なお先代住職の時どこかの学芸員の方が来られ、当寺の閻魔像を見て類例が無いので年代とか分からないと言われました。

制作年代が判ればまた別のアプローチが出来るのですが。













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