「ネットで大公開」(10)

 

令和2年10月28日(水曜日)

「ネットで大公開」(10)


当寺の門前に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」の碑が建っています。




およそ二百三十年前に勝念寺の檀家である柴屋伊兵衛が、天明年間、伏見奉行 小堀政方の悪政により伏見の町が衰退するのを憂いて、





文殊九助ら他の義民と共に直訴の計画に加わり、遂には捕らわれて京都町奉行所東役所にて牢死しました。




柴屋伊兵衛は、直訴にあたり死を覚悟して、永代回向料として藪地を当寺に寄進し、両親と先祖の墓を当寺に残しました。

詳しくは当寺HP「天明義民柴伊兵衛」をご覧ください。




今年コロナで時間が出来たので書類や文書を見直していたところ、当寺過去帳の柴屋伊兵衛の死亡年月日の所に「火」と書かれていることに気づきました。




当時、町中でも土葬が一般的で火葬は手間も費用も掛かるので経済的に余裕のある家が火葬を行いました。

柴屋伊兵衛は町年寄ですので経済的には恵まれているので普通なれば火葬も不思議ではないのですが。




当時、直訴は封建秩序を乱すため、ことの成否にかかわらず訴願人は死罪となりました。

それが火葬という丁重な葬送は何を意味するのでしょうか。





当寺HPには「柴屋伊兵衛のお墓は当寺には有りません。伊兵衛は罪人として他所に葬られました。」と書いているのですが、牢死した遺体を遺族が引き取り火葬にしたのでしょうか。





菩提寺の過去帳に「火」と書いているのは菩提寺勝念寺が葬儀をしたのでしょうか。戒名も町人としては立派な戒名が付いています。

「直訴」「罪人」というイメージから、今までの思っていたことと違うようです。




当然に当時の伏見の町衆は町の為に命を懸けた彼らの義挙に対して大いに感謝しているのですが、

お上を恐れて表立って英雄視出来ませんでした。義民の顕彰碑も明治以降に建てられました。














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