令和2年「ネットで大公開」(5)

 


令和2年10月11日(日曜日)

「ネットで大公開」(5)

「伊乱記」という書物があります。「天正伊賀の乱」の約100年後に伊賀で語られていた伊賀の乱の様子を集めて著したものです。



ここに興味深い話が載っています。




「常住寺の本尊 閻魔像は閻魔自刻の像で、慈心坊尊恵が伊勢参宮の帰路に伊賀長田の百田氏の家に宿り、病にて臨終の間際にこの閻魔像を百田氏に与えた。





後に百田氏の秘仏となった閻魔像を国司の仁木友梅(義視)が拝見を望み借り出す。





しかし、そのまま返さないため百田氏の配下、伊賀衆が仁木を攻め伊賀から追い出した。

それが天正5年(1577)5月のこと」とあります。





1)常住寺の閻魔像が持ち出し可能だったこと、


2)閻魔像の争奪戦が有ったこと、


3)その時期が天正5年であったこと、因みに勝念寺の閻魔像は天正7年に信長公から賜っています。





これをどう見るか。この話をそのまま史実とは出来ませんが、火の無い処に煙は立たず。これに類するような出来事が有ったのかも知れません。





茶器や美術品ならともかく、何故、織田信長公が閻魔像を所持されたのか、当寺にとって最大の謎ですが、「閻魔像を国司の仁木友梅が拝見を望み借り出す。」がヒントかも知れません。


今は此処までの事しか判っていません。





なお、永禄12年(1568)5月、織田信長は南伊勢攻めを開始、この戦闘の間、伊賀では守護の仁木長政が織田に降伏します。


仁木氏は織田側に恭順するとで伊賀国内での勢力向上を狙いましたが、伊賀衆は反信長の勢いを強めました。





結局反信長の伊賀衆に守護仁木氏は伊賀を追い出されたということになります。


仁木友梅(義視)と仁木長政の関係は分かりませんが、同じ仁木氏の系統だろうと思われます。





そこで、常住寺の閻魔像は百田氏から拝借という形で仁木友梅(義視)へ、仁木氏が信長に恭順することから信長に線でつながったように思いますが、まだ資料に当たっていませんので引き続き勉強中です。



















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