「ネットで大公開」(6)
令和2年10月14日(水曜日)
「ネットで大公開」(6)
天正伊賀の乱の後、伊賀の戦後復興をしたのは筒井定次で、その後を継いだのは藤堂高虎・高次です。
乱後の常住寺については、 昭和女子大学 阿部美香先生の「唐招提寺蔵『伊州長田十王堂供由緒書』について」という論文に詳しく書かれています。
天正9年(1581)の天正伊賀の乱で灰塵に帰した常住寺を再建したのは、天正13年(1585)に伊賀守に任じられ豊臣家から羽柴姓を許された筒井定次で筒井順慶の養子となった人物です。
常住寺は当時「伊州長田十王堂」と呼ばれ、筒井定次は慶長7年(1602)9月に十王堂の落慶法要と定次の亡母の三十三回忌供養を行いました。
その時に本尊前で読み上げる表白文の草稿が残っています。
それには「筒井定次が亡母の三十三回忌にあたり、菩提に資するため十王堂の伽藍を再興し、本尊たる十王(閻魔像)を彫刻し、大乗妙典の読誦供養を行う」趣旨が書かれています。
しかし筒井定次は慶長13年(1608)改易となり、次に藤堂高虎がこの地を治めました。
二代目藩主藤堂高次が常住寺の再興を行い閻魔堂とも呼ばれ修繕を重ねて今日に及びます。
藤堂高次が再興した閻魔堂の軒札には「古堂筒井伊賀守御建立」と書かれています。
現在の常住寺は伊賀の乱で灰塵に帰した十王堂(常住寺)を慶長7年(1602)に再興した筒井定次以後の寺院と言えます。
従って
1)勝念寺の閻魔像は常住寺の本尊とは別の像である可能性
2)勝念寺の閻魔像が十王堂の以前の本尊の可能性(十王堂が焼失する前に閻魔像が持ち出され、信長公が手に入れた)
が考えられると思います。